映画館の現在と未来

今週、私のもとに2つの衝撃的なニュースが耳に入りました。

ワーナーマイカルシネマズ春日部が3月5日にオープンするそうです。なんて事はないニュースなのですが、これまでと全く異なるのは国内初、映写室のない完全デジタル化された劇場がついに日本でオープンするという点にあります。

そしてもう1つ。

サイド・バイ・サイド -フィルムからデジタルシネマへ-』というキアヌ・リーブス製作の新作ドキュメンタリー映画が主要都市にて、劇場公開中です。なのですが、劇場公開中の作品にも関わらず、Appleのitune storeでビデオコンテンツとして作品を2500円で購入・鑑賞する事も出来ます。

この2つのニュースの何が衝撃的なのか?

まず、デジタルシネマの時代に突入した昨今ですが、ついに劇場も例外ではなくなったという点です。

これまでは編集室で完成した作品をフィルムに起こし、全国の劇場へ『映画』を届け、それを映写していました。ですが、ワーナーマイカル春日部の場合になりますと、デジタルデータのまま映画館へ『映画』を届け、そして、そのままお客さんが鑑賞する事になります。となれば、より原盤(マスター)に近い綺麗な状態で見る事が出来るようになるわけです。この狙いは、ひとえに映画館スタッフの人件費削減でしょう。

そして『サイド・バイ・サイド』。映画館で新作公開している映画が同時期に購入出来てしまう点。これまでは最新の映画を見るためには映画館でしか見られませんでしたが、この作品に関しては、映画館の大きいスクリーンで見る?それとも手軽にオンデマンドで見る?という選択肢が生まれた事です。

旧作ならまだしも、最近作ですから、こうなってくると、劇場映画館は大きなスクリーン見られる!という事でしかバリュー(価値)が無くなってしまい、観客はわざわざ車・電車で足を運んで映画館で見る!という必要が無くなってきます。最新作を見たい人の中にも、手軽に自宅や出先で見られるなら、オンデマンドで見たい!という人達も増えてきそうです。

さて、映画会社の思惑として、今後どのような意図があり、どのような流れに今後なってくるのでしょうか?

地方にもマニアックな作品が好きな映画通の人達は沢山おります。しかし、こういった人達は、ミニシアター系映画の最新作をいち早く見る事が出来ません。

このニーズを取り込むために『サイド・バイ・サイド』のようなミニシアター系映画をitune storeなどのオンデマンド環境にて、映画公開と同時に配信もしていく事になると思います。

そしてオンデマンド会社が考える、その先には、大作の新作映画もオンデマンドで配信という事を目標とするのは当然でしょう。言ってみれば、映画館で生まれるお金をappleなどの他ジャンル会社が狙いに行っているんでしょうね。

映画コンテンツが観客のもとへ届くまでの過程に様々な選択肢が生まれたわけですが、私はわりとドメスティックに映画興行に携わる人達を応援する気にはなれません。

と言いますのは、日本ではこれまで「映画作品は映画館に掛けなければ最終的にお金にはならない」という点を人質に取られ、映画興行する立場の人達に、映画収益の大きな部分を取られていたからです(こういった過程があったからVシネマという日本独自のジャンルも生まれたりしました)。

だからといって、沢山の人達が映画館ではない場所で映画を楽しむようになる。これもまた違うような気がします。映画は映画館で見てこそ、より楽しめる魅力が沢山あるからです。

映画館で映画を見る文化がより薄れていく時代の昨今、映画に携わるえら〜い人達は今一度、映画の収益構造と分配を見直し、歴史ある映画文化を維持してゆくために何をするべきなのか?そういった事を見つめ直す佳境に来ているように思います。

『ヌーヴェルヴァーグ』ってなんぞや?

よく映画通な人が「ゴダールのジャンプカットは革命なんだよね。カメラを外に持って行って自由な映画を撮った、これが映画の革命なんだよ!ヌーヴェルヴァーグ!」とか、「ルイ・マルって監督がヌーヴェルヴァーグの中心的な人物でね・・・」とか、映画通な人が映画通を気取るためによく出てくる『ヌーヴェルヴァーグ』という言葉。

でも、こんな内容の映画話を聞いてても、よく分かんないですよね(笑)。そもそも何がスゴいのかハッキリしないし!(というか何が言いたいのかよく分からんw)

という訳で、そんな映画通気取りな人をギャフンと言わせる事が出来ちゃう、簡単に分かる『ヌーヴェルヴァーグ』講座ぁ〜♪パチパチパチ!

ヌーヴェルヴァーグ』ってそもそもどういう意味なんでしょうか?これはフランス語で「新しい波」という意味だそうです。言い換えれば新しい世代の映画と理解しても良いかもしれません。

時は1950年代、映画の国ハリウッドではミュージカル映画が全盛期を迎えており、また映画のネタが無くなっていた時期でもあります。この頃の映画は1990年代のアクション映画で、総製作費何百億!と争っていた時期と非常に似ており、折しも50年代も、「このキャストでミュージカルだぜ!こんなにセットにお金をかけたんだぜ!」と争っていた時期です。

しかし50年代後半にもなると、そういった競争も陰りを見せ、半ばネタ切れ感がある中にアルフレッド・ヒッチコック監督やハワード・ホークス監督などの職人的な見せ方をする映画が普及してきました。

ですが、当時の観客の反応としては「面白いけどさぁ〜、スゴい踊りや素敵な歌があるわけでも無いしぃ〜、アカデミー賞取る程の作品じゃない、娯楽作品だよねぇ〜。」みたいな評価だったそうです。おぉ・・・、今では考えられない低い評価ですね・・・。

そして舞台はヨーロッパへ!

フランスでは2つの映画雑誌がお互いに「これこそが正しい映画だ!」「この監督こそが映画なんだ!」と言い争っていました。映画雑誌『ポジティフ』と『カイエ・デュ・シネマ』です。

そして、この雑誌で半ば2ちゃんねるのように、互いに映画批評をしていた人達が、後の『ヌーヴェルヴァーグ』と呼ばれる監督達です。けっこう意外ですよね。映画を撮った事も無い素人が、自分の好きな映画監督を語って、口喧嘩してただけなんです (笑)。

その中でよく争われていた内容というのは「ミュージカル映画はもう終わりだ!ヒッチコックハワード・ホークスは高度で素晴らしい映画を撮っているのに!この低評価はなんなんだ!あれはただの娯楽作品なんかじゃないぞ!映画の革命なんだ!」という動きが起こってきます。

ちなみに、この好きな映画を主張し合う運動が日本語でいう『作家主義』という映画用語です。日本でヌーヴェルヴァーグを1番知っている、映画批評家蓮実重彦氏曰く、作家主義というと、どうも自由気まま、好き放題に作った作品が作家主義的映画と誤解されているが、そもそもフランス語の翻訳に難があるらしく、まぁ、こういう一連の主義主張の運動こそが作家主義という本来の意味なんだそうな。

おっと!話を戻して・・・、しかし、こんなフジテレビデモみたいな運動やってても、所詮は映画を撮った事もない素人映画評論家。しかも相変わらず、ハリウッドでは当のヒッチコック監督達の評価は低いまま・・・。

そこで、この映画評論家達は自らが立ち上がって映画を撮り、「俺達の大好きなヒッチコックはスゴイ!って事を世界に認めさせよう!」と立ち上がったのです・・・、ハイッ!これが『ヌーヴェルヴァーグ!』

ジャン・リュック・ゴダール監督の「勝手にしやがれ」なんかがよく例えで出てきます。

・ジャンプカットなどの映画界において新しい技法
・それまでハリウッドでのセットでしか作られない映画が、フィルムの質(感度)の向上に伴い、自由なロケ撮影映画が出来た

などなど・・・(だいたい、出てくる主な内容はこの2つ)。

ヌーヴェルヴァーグ』運動によって作られた映画が、結果として、今までに無い新しい映画が出来た事は事実なんですが、本来の流れはこのような一連の動きによって生まれたんだよって事を考えると、そんなに難しい話じゃない事がよく分かります。

その当時のヌーヴェルヴァーグ運動を起こしてた人達が非常にインテリに映画を語ってたので、21世紀に生きている僕らは、何か難しい映画なのかなぁ、映画通じゃないと分からない映画なのかなぁと思いがちですが、タネを明かせば、実は何てことは無い (笑)。

ただ、映画の歴史として考えた時、ミュージカル映画が既に飽きられ、もう映画で表現出来る事は無くなってしまった時に、ヌーヴェルヴァーグアメリカン・ニューシネマによって、新しい映画が再び生まれてきた事を考えると、ヌーヴェルヴァーグの人達は偉大な功績が故に、映画が好きな人達はやっぱり、色々語りたくなるのかもしれません。

あと、これは個人的に思う事。

21世紀を生きる、映画が好きな人達を見てると、ヌーヴェルヴァーグ時代の頃と比べて映画を語るレベルが低いように個人的に思っています。もし、21世紀の今にゴダールがバリバリの若者だったら・・・・、

「えっ!?カメラ超安いじゃんww  スマホでも綺麗に映像撮れるじゃんww youtubeで世界中の観客に見せれるじゃんww」

こんな感じで映画を撮りまくってたんじゃないかなぁと。僕は映画仲間同士でこんな事を妄想し、若い頃に自分たちで映画を撮りまくってました。しかし、今の映画が好きな若い人達を見ると、どうもそういった熱気のようなモノを持ってる人が少ないと感じます。

まぁ、そういう意味ではアニメってホントにスゴイ。ニコニコ動画で自主制作したアニメを見ると、もう日本は映画じゃなくってアニメ!という時代になってるのかもしれません。

日本アニメDVDが高い理由

日本で映画DVDを購入しようとすると、せいぜい2000円前後の価格ですがアニメDVDを購入しようとすると、「えっ!?2話で6000円!?」ってな事を思う人は少なくないと思います。

アニメDVDって他と比べても確かに高い。これ如何に?って事でせっかくコメントも頂きましたし、解説してみようと思います。ただし、私はアニメ業界の人間ではないので、自分で勉強した限りですから、多少の間違いは許してね!

宮崎駿監督というレジェンドな人物がいます。この人、実は死ぬほどに手塚治虫を恨んでます。「私は手塚治虫の漫画に憧れ、漫画家を志し、アニメ業界で仕事をするようになった人間だが、アニメーター手塚治虫を心底恨む。業界をこんな風にしやがって!」との事。

日本で最初にテレビアニメーション環境を整えたのは手塚治虫氏です。しかし、当時、アニメは視聴率なんて取れない、子供しか見ない、との事で非常に価値の低いモノとして見られていました。

アニメをテレビ局で放映する際に、通常はテレビ局がコンテンツ作品に対してお金を払って、放映します。そしてCMを流したい企業は広告料金をテレビ局に支払い、その広告料金の中からテレビ局はコンテンツを制作するお金と利益を生み出します。

CMを流したい企業(*・∇・)つ⑩ → ⑩ヽ( ̄ー ̄〃) テレビ局

テレビ局 (〃 ̄ー ̄)ノ⑤ これで作品作って♪ → ⑤ヽ(^∀^:) 制作会社

というのが通常なのですが、アニメに市民権が無かったために、手塚治虫氏は「アニメを作りました。放映するためにお金も払います。だから放映して下さい!」と、逆転の関係から日本アニメーション産業はスタートしてしまったのです。

手塚治虫氏の執念というか、土下座してでもアニメをテレビで放映したい!という強い重いから、こんな事になったアニメ業界。正確に言えば恐ろしく安い金額で放映権をテレビ局が買取り放映したのが事実ですが、関係の強弱から言って、基本的にはこのような構図によって日本アニメーションがスタートし、非常に低賃金での産業が成立してしまいました。

そして現代、この状況はあまり変わっておらず、アニメコンテンツに対してのテレビ局、広告企業共に評価はあまり変わっておりません(現実には少しづつ着実にアニメの評価は上がってきてるけどね)。アニメ制作会社はアニメを作るお金がない。この状況でひねり出した策は、作品の制作費はアニメDVDで資金回収するというビジネスモデルです。

本来であればCMを流す企業が良質なコンテンツを作るために制作費を渡すのですが、アニメの場合にはそれが無い(微々たる金額)。なので、DVDの金額に制作費がそのまま反映され、結果、1枚6000円などの高い金額になってしまっています。ある意味、アニメ作品はユーザーの支えによって成り立っていると言っていいでしょう。本来であれば、企業が出すべきお金をユーザーが大きく負担しているのですから。映画が1本2000円程度だとすると、6000円のアニメDVDは、4000円分、制作会社を支えている、寄付しているようなものです。この金額を見て、CMを出す企業ってすっごいお金を払っているんだなぁと見るか、アニメって本当にユーザーで支えてるんだなぁと見るか。それは人それぞれだと思います。

ただ1つ言えるのは、映画業界やテレビ業界と比較して、アニメクリエイターは非常にシビアかつ、分かり易い構図の中でビジネスをしており、ハリウッドのような厳しい競争の中で切磋琢磨をしている事を考えると、今後、アニメーションが日本の主流な作品表現媒体になる日はそう遠くないのかもしれません。

そして、今、若い人にとって映画に趣味のアンテナが立つセンスよりも、アニメの方が面白い!好き!というセンスの方が時代に合った良いセンスをしているんではないか?と個人的に思っている今日この頃です。

今、米国映画市場では面白い事が起きている

Amazonが月額料金での配送とストリーミング(逐次再生)サービスの提供を開始するそうです。米ネットDVDレンタル大手ネットフリックスとの競争が激化。という記事がちょっと前に出ていました。

これってけっこうスゴい事が起きているんです。という事で解説してみよう。
ネットフリックスという会社をご存じ無い方も多いと思うのですが、まぁアメリカのTSUTAYAみたいなレンタルDVDサービス会社の最大手とイメージしてみてください。

んで、10年くらい前にですね、宅配DVDレンタルサービスを始めた会社でもあります。郵便でレンタルDVDが宅配されて、郵便ポストで返すっていうサービスですね。

このネットフリックスという会社は、この手法で、それまであった地方のレンタルビデオ屋さんなんかを逐次して、米国最大手に成長した企業だったりします。しかし、レンタルされてしまっては、販売DVDが売れない!って事で米国映画会社は販売DVDの値段を一律で大きく値段を下げる反撃に出ました。

レンタルDVD vs セルDVDってな構図です。

そりゃレンタルのが多少は安いのですが、郵便でレンタルして、郵便ポストで返却というビジネスモデルは面倒臭がりの米国人には合わないようで、「どうせ値段が5$しか違わないなら買っちゃおう!」という市場ニーズが非常に大きく、米国映画会社としては薄利多売ですが、セルDVD市場が大きく加速しました(米orカナダAmazonのDVDが安い理由はこのため)。

しかしネットフリックスも黙って見過ごすわけではありません。

宅配レンタルDVDサービスを利用した事のある方は知っているでしょうが、このサービスって返却期限は基本的に無いんですね。月額会員制で新しいDVDを借りたければ、今借りてるDVDを返さなくてはいけない。米レンタルDVD市場ならではの合理的なシステムです。

しかし郵送の手間とコストが非常に掛かるという事で、このネットフリックスサービスの会員であれば、郵便でなくともオンデマンドで借りれますよ、見れますよというサービスも同時並行でスタートさせました。

当時、アメリカではこの『オンデマンドで視聴する』という解釈に、映画をセルしている企業、並びに映画会社からの猛反発があったそうです。なにせ、DVDの盤面を刷ってナンボの映画会社からしたら、オンデマンド、しかも月額会員制で見放題!となってしまっては、映画1本あたりの収益がかなり下がりますからね。ネットフリックスは「あくまで会員ユーザーに郵送かオンデマンドか選んで頂いている。ネット環境が無い会員にもサービスを提供するが、ブロードバンド環境にある会員には、郵送の時間コストを無くすためにオンデマンドサービスを利用して頂けるようにする」というのが言い分です。

ようはネットを通じて映画をレンタルしているんだよ。んでうちは月額会員制だよ。ちなみにうちのサービスは返却(というかオンデマンド視聴が終わった時点で返却という解釈)して頂ければ、何度でも見れますよ。というのが言い分なんですね。屁理屈みたいな言い分ですが、これで上手くやり過ごしちゃったわけです(笑)。

まぁ、その後どうなったかは2012年の今を見れば明らかですが、日本だと『fulu』サービスに代表されるように、月額会員制のオンデマンドサービスが非常に大きな成長となっている昨今だったりします。

そして、Amazonもストリーミングサービスを開始となるわけです。
AppeleのAppele TVだったり、ネットフリックスであったり、こういったサービスで最重要となるのはコンテンツの「量」と「質」だと思うのは私だけではないと思います。

せっかくサービスに登録したからには最新の映画がいっぱい見たいし、古い映画やマニアックな映画なんかもリストアップしてくれてると良いよなぁと思います。となれば、各サービス会社は喉から手が出るほどに、コンテンツのニーズが高まっています。しかしコンテンツ(映画)の中には、今ではほとんど利益を見込めないような映画から、今でもドル箱になるような映画まで様々です。

で、ここからは僕個人の未来予想になるのですが、ここまでの経緯を見ていると、ソロモン・ブラザーズモーゲージ債→リーマンショックの流れと似たものになってくるのでは?と非常に危機感を感じていたりします。

モーゲージ債とリーマンショックについては説明が難しいので、マイケル・ルイスの「ライアーズ・ポーカー」を読んでみるとよーく分かりますよ。面白いのでお勧めの本です。

結論から言うと、映画コンテンツ自体が証券の商品のように成り始めているという事です。ちなみに、日本で起こっている事で言えば、松竹のオンデマンドサービスが終了。Fuluと提携して、小津安二郎作品から最近の松竹映画まで、少しづつ小出しに映画を卸しています。

たぶんこのままの流れでいけば、非常に小さい市場ですが、日本の映画市場も米国のオンデマンドサービスに食われてしまい、結果、各映画会社の利益が少なくなる事になるでしょう(松竹が自社サービスのオンデマンドを辞め、海外のオンデマンドサービスに卸す事によって利益は少なくなります)。そうなると、今度は新作の映画が作られなくなってしまう。ひいては行き着く先には日本映画というものが無くなるかもしれません。

まぁ、実際、日本映画市場というのは各国と比較するとかなりガラパゴスな環境なので、これを説明するとまた難しいんですが、実際、アメリカの映画市場だけでなく、日本の市場も少しづつ食われて行ってるというのが今の現状です。そして、少なくとも米AmazonAppleNetflixによる映画オンデマンドの戦国時代に突入した今日この頃なのです。

競争が激化している中だけど、日本映画・・・、大丈夫なのかね〜?

「けいおん」というアニメーションが持つ怖さ 〜part1〜

21世紀に入って約10年。「けいおん」というアニメーションが近年、非常にヒットしております。ヒットする作品というのは、いつの時代でも、その時々を生きている人の感情を反映させたものが常にヒットします。これは映画、アニメーション関わらず、ヒットする作品には必ず共通して持っている要素です。ちなみに、「けいおん」という作品を制作したのは、アニメファンでは有名となっている京都アニメーション

この京都アニメーションという会社は通常の制作会社と比較しても、かなり独立した組織であり、「涼宮ハルヒ」シリーズをヒットさせた事により、次作である「けいおん」は、作品制作の自由を大きく保証されて制作してのではなかろうか?と私個人は思っています。近年、京都アニメーションほど、映画、テレビドラマの世界でも自由な制作環境で作れるという事はスタジオジブリを除き、私が知る限りでは非常に稀有なのではないでしょうか。

この京都アニメーションは2006年に「涼宮ハルヒの憂鬱」という作品を生み出しました。そして次に世に送り出した「けいおん」。私はこの作品を非常に恐ろしい作品だと感じています。

話は少し戻り、90年代の代表的アニメである「新世紀エヴァンゲリオン」。この作品では「逃げちゃダメだ!」というテーマが根本に存在しました。90年代にティーンであった私も、この感覚は非常に共感出来得ます。バブル崩壊後に育った世代ですから、大人が常にため息をつき、下に俯いた表情を見て10代を過ごした世代です。

ちょうど90年代のバブル崩壊後、就職氷河期からフリーター世代が出現した時代でして、その時代を過ごした10〜30代の人達は、大人になる事へのアンチテーゼとして、「新世紀エヴァンゲリオン」は作品そのものが持つ力以上に共感を呼び込んだと私は思っています。

そして時代は21世紀。2006年に「涼宮ハルヒ」は生まれます。この作品では無気力な主人公・キョンと、超行動的な涼宮ハルヒのセットで物語が展開します。この時代は漫画家・松本大洋などによく見受けられるのですが、「性格が真反対で対立する2人が親友である」という設定を初めから置いた上で物語がスタートするストーリーがヒットする傾向にあったと思います(ピンポンにおけるスマイルとペコのような)。

基本的に無気力で行動力が皆無のキャラクターでストーリーが発展する事は難しいため、涼宮ハルヒのようなキャラクターを用いて、物語を展開させていく事はまぁ当たり前なんですが、それ以上にキョンというキャラクターが、21世紀の時代を如実に反映させたキャラクターであると同時に、若者が抱える根本的な意識が変化した事に、当時、私は興味を注がれました。

エヴァ」から「ハルヒ」への価値観の変化。
例えるならば、コップがここにあるとします。このコップの中に私が居る。存在する。そして、コップの外が社会であり、大人である。コップの外に出る事が成長であり、大人になる事である。

エヴァでは「逃げちゃダメだ!」というテーマでもって葛藤する主人公を描きました。この場合、コップの外に出るor出ないで葛藤する主人公です。

ですが、キョンというキャラクターはどこか諦めており、「時が来たらどうしようもない。だから適当に、今を楽しもう」と半ば無気力な状態の主人公として描かれます。一方、涼宮ハルヒも同じ心境を持ちながら、キョンとは正反対のアクションキャラクターとして、超行動的に描写されます。

コップの外にはいずれ出なければならない。諦める者ともがく者。はたまた、コップの中で時が来るのを忘れるために騒いでいるようにも思えます。ただ「エヴァ」と決定的に違うのはキョンハルヒも「いずれ外へ出る事は逃れようのない事実」と意識してしまっているキャラクターである。ここが非常に面白いのです。

キョンは理性的だが、無気力で非行動的。
ハルヒは感情的で、行動的。


私個人はこの2作品をその時代に生きる価値観が上手く表現出来ている作品であり、素晴らしいヒット作品だと思っています。
そして、その系譜のもと、京都アニメーションは「けいおん」をこの世に生み出します・・・(part2へ続く)。

マンガ記号論

マンガ記号論というものがあり、これは手塚治虫が提唱した表現方法の1つです。表現による記号論というのは、まず手塚治虫のヒストリーからヒモ解かなければなりませんのでいちおう説明。

その昔、当時の漫画界では神様であった手塚治虫に対し、アンチ手塚治虫として出てきたのが劇画漫画です。「ゴルゴ13」「あしたのジョー」など、手塚では描けない世界を、手塚では描けない漫画を、という事で出現した劇画漫画ブーム。しかし手塚治虫はこれに対し、劇画漫画の手法を自らの漫画に取り入れてしまいます。よりリアリティのあるコマ、表現を取り入れ「火の鳥」などの作品を次々に生み出し、対抗します。

そして70年代、ニューウェーブの名の下に1人の漫画家が世に出ます。大友克洋です。彼は圧倒的な画力と、映画的感性に裏打ちされた漫画表現でついに手塚治虫を圧倒します。手塚治虫の絵は見てわかる通り、キャラクターは可愛くデフォルメされており、大友のSF的にリアリティのある漫画には勝てませんでした。そして対抗策として提唱したのが、「マンガ記号論」です。

「マンガは記号である」。こうでも言わないと、大友克洋という若手漫画家に神様・手塚治虫は自分を納得させる事が出来なかったのでしょう。この頃、手塚治虫はマンガの画力にかける情熱を捨て、アイデア満載のストーリーで勝負に出ました。もう終わった過去のマンガ家であった手塚治虫は「ブラックジャック」という傑作を生み、再び第一線に復活します。

映画だろうが、マンガだろうが、表現するという立場になると「リアリティ」というものをみな追求します。ハリウッド映画のような迫力あるものを作りたい。それにはオリジナルの感性に裏打ちされた、圧倒的な世界観で作品を作る必要があります。しかし、それを現実に出来るのはほんの一握りの才能の人達です。そして現代、新しいストーリーやキャラクターというモノは出きってしまい、オリジナルの表現が生まれにくい現代において、手塚治虫自身も自らの才能の限界に気付き、行きついた表現方法「記号論」。これが21世紀の時代の手法だと思うのです。

1977年、映画界において1つの歴史的作品「STARWARS」という映画が生まれました。スター・ウォーズは映画マニア以外は知る事もないと思うのですが、古い伝記「アーサー王伝説」のストーリーのパクりです。まぁ、パクりっていうと語弊がありますが、誰でも知ってるような古い昔話を基本ストーリーとして、古いSF映画のキャラクターや当時では最新の合成技術を使い、あたかもオリジナルであるかのような顔をして世に出たのが「スター・ウォーズ」なのです。

記号論の利点として、記号的であるがゆえ、物語やキャラクターがシンプルかつ抽象的であります。抽象的であるという事は誰でも感情移入をしやすく、何度見ても飽きにくい。短所としては、基本的にベタな表現であるので、如何にベタな表現として気付かれないように作るか、組み合わせるか。という事であります。まぁ、難しいんですね。スター・ウォーズの場合は当時、誰も見た事の無いような合成映像で観客を圧倒し、ベタなストーリーである事を気付かれないように作られています。

21世紀においては「涼宮ハルヒの憂鬱」というアニメが大きなブームとなっています。この作品は、様々な作品で見かけるようなキャラクターによるスターシステム的アニメであります。

スターシステムとは手塚治虫が作った1つの表現です。例えば、「ドラえもん」のキャラクター達が「西遊記」「マッチ売りの少女」「3匹の子豚」の世界でマンガを展開するような事です。手塚はマンガ内のキャラクターを1人の人間、役者として捉え、色んな映画に出させるつもりで描いた結果、確立された表現の1つであります。

涼宮ハルヒの憂鬱」という作品は、ツンデレや無機質キャラ、萌えキャラやBLキャラなど、どこの作品でも人気が出るようなキャラクターを一同に集め、主要人物として物語が展開していきます。スターシステムを存分に使い、「名探偵コナン的な推理アニメ」「根性野球アニメ」「映画バック・トゥ・ザ・フューチャー的時間移動」、また70年代のSF作家ストーリーのような筒井康隆小松左京的なモノを垣間見せます。

これからアニメ、映画を見る10代20代の人達には新しいオリジナルアニメに感じがちですが、よくよく見ると色々な作品からアイデアを拝借しており、その組み合わせで作られているアニメなのです。過去も現代もヒットする作品はどこかしら記号的に作られているのですが、オリジナルがより出来にくい現代においては、より重要になってくると思われるのが「記号論」なのです。

涼宮ハルヒの憂鬱」や「けいおん!」などは、入り口は広く作られており、普通に楽しめるモノになっていますが、より深く見てみると、いくつも重層的に意図して作られた記号的アニメーションであり、私のような同じクリエイターとしてすごい!と思わず感じてしまいます。ジェンガのように記号を組み合わせて作られた作品というのは、何十年経っても色あせない、面白い作品として生き続けていく。「記号論」というのは才能なき者の知恵を使った素晴らしい表現方法だと私は思うのです。

※この記事は3〜4年前に書いた自分の記事の転載です。